150713 いつか君が死ぬ日
死ぬことについて、というのをはじめて意識したのは6歳のときだった。
ノストラダムスの大予言の話が、1999年を目の前に泡のように浮かんでは消えていっていて、私はそれをものすごく真に受けた。そのときまず思ったのは「自分が死ぬのはべつにいい。周りのすべてが死ぬのは耐えられない」だった。だから、寝る前にお祈りをしてから眠るのが習慣になった。「どうか恐怖の大王が来ませんように。どうか私の周りのすべての人が幸福でありますように。戦争が起きませんように」そう祈りながら眠る6歳の子供はすこし異常かもしれないし、祖父母には笑われた。そんなことはないのだから落ち着いて眠りなさいと。
あれからもう20年以上経つのかと思う。
いつかどんな人間も死ぬ。
そのことはずっと考えてきたことなのだし私は、まだ、充分に歳をとったとされる人しか見送っていない。でもこんなに、誰かを見送るという行為はつらいものだ。いつだって。だから1日でも長く生きますように、まわりのすべてを。と祈らずにはおれない。
週末に、夫と一緒に、お墓まいりに行った。
大きなお寺のお墓はとてもシステム化されていて、待合室で納骨をした人の名前を告げると、あなたのおうちのお墓の番号は◯◯ですよ、と教えてくれて、機械化された骨壷がパーキングエリアの車さながら、エレベーターに乗ってやってくる。清潔なお墓まいり。東京で生きていくということについてすこし考える。
夫に、あのお墓はあと何人くらい入れるんだろうね。と聞いたら、あと一人くらいだと思う、だから死ぬ前にお墓は必要だね、とこたえた。どこのお墓がいいのかな?と聞いたら、どこでもいいよ、と言われた。
お墓のことをかんがえている。
きみがいつか死ぬ。
私もいつか死ぬ。
どこでかはわからないしどのようにしてかはわからない。
だけど絶対に死ぬ。
その時に私はきちんとできるだろうか。
世界は滅ばないと言えるのだろうか。
6歳でない私は、あんまり何も変わらないテンションで、
お墓のことをかんがえている。